『ペリー提督、キリンビール』

寺号を「天沼山」と号す通り、当寺の以前にあった「北方村の天沼」では、とても綺麗な水が湧き出ていました。

江戸時代末期の1854年4月に日本に開国を求めにやってきたあのペリー提督も山手の丘を訪れた際、天沼にある「小さな寺」に立ち寄り、お寺でうまい湧水で点てたお茶を飲んで休憩をしたそうです。まさにこの「小さな寺」こそ昔の東漸寺であります。(参考文献:ペリー日本遠征随行記)

開国後、この天沼の山の反対側には船舶向けの水屋敷もあり、「横浜の水はインド洋に行っても腐らない」と各国の船員からも評判だったそうです。

この天沼の湧水がビール醸造に最適な硬水であることからビール製造地として、ビール技師のコープランドによって明治2年にビール醸造会が創られ、居留外国人や兵士たちにとても評判になり、日本で初のビアガーデンが開かれたそうです。

その後、日本人も参加し「ジャパン・ブリュワリー」となり「麒麟麦酒株式会社(キリン)」となって関東大震災までこの天沼にありました。

※画像は「横浜開港150周年記念『山手の丘の物語』」より転載。

『小学就蘭学舎・北方小学校』

現在の北方小学校(キリンビール跡地)があるちょうど山のふもとに東漸寺はありました。

明治6年の「学制」発布で東漸寺の境内に「第一大学区二十五番小学就蘭学舎」が創られ、これが北方小学校の前身であります。

明治8年に寺が火災に遭うまであったそうです。

寺はその後、明治時代中頃に中村町字平楽百四十八番地、つまり現在の大平町に移ってまいりました。

『焼夷弾』

焼夷弾の雨が降った横浜大空襲の際には、本堂屋根に焼夷弾が着弾したが爆発せず、火難を逃れました。

屋根内部には爆弾の穴が現在も残り、戦争の恐ろしさを伝えます。